私のセカンドチャンス

須賀田 寿子(50代)

 県立高校の音楽の教員を続けて34年。年齢は56才になっていた。今、国の内外を旅行添乗員として飛び回っている私をだれが想像できたろうか。私自身、あの、生徒達に囲まれた穏やかな、幸せな生活がこれほどに一変しようとは考えもしなかった。音楽という教科は、特に受験科目というのではなく、少数の音楽系への進路指導はあったものの、多くの生徒達には”人生における主要教科“と称し、私の授業はリクラゼーションやミュージックセラピーを取り入れ、"より良く人生を送るために”というのが一貫のテーマだったと思う。授業とはいえ、点数に左右されるのではなく、もっとグローバルな視野を持ち、音楽の授業を通して柔軟な心、しなやかな感性を磨き、生徒達には、自分の持っている力を自然に使う事ができる人になって欲しいと願ってきた。教員という仕事は私に合っていたたし、毎日が楽しかった。今思えば天職だったと思う。それが何故?理由は良く分からない。何かつき動かされるような力が私の背中を押し、私にはもう一つやり残した仕事があるような気持ちになったのだ。生徒達にも「先生どうして?ここにいれば安定した生活が保障されているのに、それを捨ててまで?」と聞かれた事がある。思い当たる答は一つ。「子供の頃からの夢だったのよ。」そうだ!今やらなければ。あとになったらきっと後悔するだろう。私には残された時間は少ないのだ。では一体どうしたらツアーコンダクターになれるの?2年前のちょうど今頃、私は「旅程管理主任者」の資格を取るため四苦八苦していた。私の持っているいくつかの資格、教員免許も教育カウンセラーの資格も何の役にも立たない。新たな資格を取得しなければならない。国内、海外の両方をとるためには5科目の試験に受からなければならなかった。国内・海外旅行業務、旅行約款、これらの科目はほぼ雑学のようなもので、この齢になるまで各地を旅して回った私には、難なくクリアできるものだった。問題は英語。こちらも何ヶ国も歩いてきているので、だいたいの事はわかっている。空港や機内での会話、ホテルやレストランでのやりとり、何の問題もないと思っていた。しかし一度テストを受けてみてビックリした。まずはマークシート方式。生徒達には当たり前のようにやらせていた事だが実際に初めて自分で受けてみて、時間が足りない!設問は4択で、a、b、c、d。どれだっていいじゃん?という問題ばかり。あせって手に汗がにじんだ。結局何もわかっていなかったのだ。テストが終わって試験管に聞いてみた。この年だから何の恥もない。「何故こんなテストをするんですか?適性には関係ないんじゃないですか?」すると試験官が言った。「須賀田さん、このテストはね、多くの人に受かってもらいたいためのテストなんですよ。18才の人にも年輩の方にも。だから丸暗記をすればいいんですよ。」はぁー。丸暗記。どれだけ長い間この丸暗記というのをやって来なかったろう。どうやったら暗記ができるのだろう。先程四苦八苦と言ったのはここからの事なのである。ほんとうはねじりはち巻をし、中学生のように頭をからっぽにして暗記に取り組んだ。しかし、悲しいかな。昨日覚えた事がきょうは忘れている。それの繰返し。けれど諦めない。この意味のない様な試験でも、合格しなければツアーコンダクターになれないのだから。先生を辞めてからゆっくり試験の準備をしようという気持ちは私には全くなかった。ともかく3月で退職したら4月からツア・コンとして働きたかったので、先生をやりながら毎日時間を作って暗記をし、1月に何とか合格にこぎつけた。2、3月に実務の研修旅行も終え、3月末には初添乗となった。不安も、悩んでいる暇も、34年間の教員生活への感慨、余韻にふける時間もなく、休みなく添乗の予定が入り、今までとは180度違う生活が始まった。何しろ教員という仕事しかやった事のない私が、サービス業の何たるかをわかっていなかった。一生懸命やっていれば人は認めてくれるだろう位にしか考えていなかったのだ。お金を払っているんだぞというお客様の態度、十分な満足を得られなかった時の不平、不満、私への怒りと文句。又、旅行会社の苛酷な雇用と労働も想像を絶するものだった。今まで34年間、人に文句を言われた事がなかった私には、人格まで否定される様な屈辱的な経験だった。私はあなたの奴隷じゃないと何度思った事か。私は添乗員になった時、私のこれまでの経歴や知識はすべて封印しようと決めた。先生をやっていたなどという事はおくびにも出さず、知ったかぶりは絶対やめようと。それがサービス業に徹する事だと思ったからだ。しかし、そのことが結局、自分で自分の足を引っぱっている事であったのだ。何をやってもうまく行かない。どんなに全力を尽くしても文句が出る。こんなはずではなかった。他の事なら何でもそこそこにこなせるのに何故添乗員はできないのか。ほとほと疲れて、だいたい先生なんかやっていた人が出来る仕事ではないんだと思えてきた。もうやめてやる!でも今、一年もたたずにやめたら生徒達に申し訳がない。「自分の人生、自分で決めて。」と生徒達には言って来たではないか。私にかかわった多くの生徒達が私の背中を見ているのだ。そんな時息子が私に言った言葉。「お母さんはどこから見たって先生そのものだよ。身体から先生臭がしているもの。隠したって隠しようがないよ。」思えば自分らしさを封印し、年齢だけはベテラン風、若い人のように機敏さも体力もない。自信もなく、お客様のいいなりになってバタバタしている図。これではお客様にしてみれば文句の一つも言いたくなるだろう。自分がやりたかった仕事なのに、自分のいい所、少しも出して来なかった。できない事ばかり数えて、できる事をしてこなかった。それからは自分の感動した事を素直に伝えるようにしてみた。イタリア、ヴェネツィアの運河にかかる「嘆きの橋」に行った時には、牢獄へ向かう囚人達がこの橋からこの世の見納めをしたんです、と説明し、ローマでは、オペラ「トスカ」の舞台になった場所で、ここからトスカはテベーレ川に身を投げたのです、とオペラの説明をした。何しろ34年間授業で教えてききた事なので、私にとっては得意分野。ゴンドラの上ではカンツォーネを歌い、オペラの舞台ではアリアの一節を歌ってしまう事も。お客様から、「須賀田さんと一緒に旅行ができてよかった。」と言われるようになり、私がこれまでやって来た事は無駄ではなかったし、それを生かすことでお客様に喜んでもらえるようになってきた。思えばこの齢で初めて挑んだ仕事、慣れない事とはいえ新しいマニュアルにとらわれ、苦しんできた。しかし苦しみながら見えてきたのは、マニュアルは自分で作り出すもの。これまでの人生経験あっての自分。それこそが私のマニュアルなのだ。添乗員は定年のない仕事。健康であればいくつまでも続けられる。けれどそれはオファーがあっての話。私を必要としなければ、仕事は来ないし、いつでも忘れられてしまう。これからまだまだ勉強。自分を磨いていこう。いくつになっても夢を実現させるために。