私らしく生きるために
匿名(60代)
「お母さんを救ってあげたいの!」
当時、東京で一人暮らしをしていた娘と数ヶ月振りに会った時の、彼女の開口一番の言葉であった。
ハンマーで、ガーンと全身を殴られたようなショックを受けた。
「なぜ?」、「どうして?」、「なぜ?」、「どうして?」
来る日も来る日も、自問する日が続いた。
そして・・・ある夜、
「私は、わたしを大切にしてこなかった」
ということに気が付いたのである。
私の結婚式の日のある偉い方の祝辞を、今でもはっきりと覚えている。
「・・・・お二人は今、静かな入り江から船出をしようとしているところです。これから、どのような荒波が行く手に・・・・」
未だうら若き乙女であった私には、荒波とよぶ程の経験はなかったが、人生にはさまざまな大事があることは理解、想像はしていた。夫の両親、夫の親族との同居、そして何よりもこの家の重圧、それらの不安を抱えての結婚であったので、この祝辞を聴きながら、不安はいっそう助長されていった。
荒波はすぐに押し寄せてきた。
細波など、日常茶飯事であった。
いつしか私は、夫や一緒に住む者が、「右」と言えば右、「左」と言えば左を向き、自分では「赤」と思っていても「白」であると自分に言い聞かせ納得させて、それが幸せなことなのだ、と思い込むようになってしまった。
夫の父を、殊に母を昼夜ひとりで看取り、心身ともにボロボロになって、それでも幸せそうな顔をしていた。
介護から解放されたが、原因不明の病に三年間悩まされ、やっと回復してきたその矢先の、娘との再会であった。
冷静を取り戻し、まず娘に詫びた。私も辛かったが、そんな私を見ていた娘はもっと辛かったのである。
私は、それまでの自分の考え方・生き方を見直さなければならない、と決心した。そのためには、まず勉強が必要だ、と。
平成三年の秋のことであった。
“自己主張はまず基本から”とのおもいで、「アサーション・トレーニング」の通信講座を受けた。
“傾聴の大切さ”に気付き、「いのちの電話」の相談員養成講座で一年間学び、ボランティアも経験した。
その学びを身近に生かしたいと思い、女性の自助グループ「あじさいの会」を作った。
句集を刊行した。『愛語』
「自立した生き方を研鑽するために、女性の海外研修員募集」という県の企画に応募。合格して、イギリス、フランスへ研修に行った。
市の「女性行動学研究会」で、“女性と介護”について学んだ。自分の介護体験の振り返りでもあった。
県の機関で、女性の抱える問題について学んだ。
「セルフカウンセリング」を学んだ。
「人権アクト・イン・栃木」で、女性の人権について発表。「あじさいの会」の活動が高く評価された。
「ほほえみの会」を立ち上げた。女性達の交流と学習の会である。
「フェミニズムカウンセリング」を学んだ。
『私の宮沢賢治 その透明な軌道への模索』を刊行した。
正に手当たり次第とも言える、十有余年に及ぶ私の試行錯誤の旅。ずい分まわり道をしてきたが、人生に何ひとつ無駄なことはない、というから悔いはない。
かつてお会いした宮沢賢治の令弟清六氏は、こう話された。
「・・・・人はだれも、生まれ育った環境、風土、時代の制約から逃れることは出来ません。彼(賢治)もそうでした。それには、努力です。努力です。努力、のみです」と。
ものごとの根底を変えるには、相当の痛みも伴う。私が依存した生き方を良しとしてしまったのも、痛みをものともしない勇気と覚悟を持つ努力が足らなかったからであった。
試行錯誤の旅の途や二つの会の活動で、生涯の友とよべる多くの人達に出会った。
特に、イギリス、フランスの研修で出会った女性達の笑顔は忘れられない。
「まず、行動を起こすこと。そして、あせらずに時間をかけて地道に続けていくことです。私達も二十五年の歳月がかかっています。」
フランス、リヨン郊外のDV被害者救済、援助機関(民間)の女性の、自信に満ちた言葉は、私の原動力である。