私のセカンド・チャンス

Y・K(40代)

 茨城出身の私は、都内の大学を卒業後、都立高校の教員として六年あまり働きました。仕事を続けるということで結婚した相手の想定外の海外赴任に伴い、年度半ばで退職し、二年間をカナダで過ごしました。短ければ一年、長くても二年ということもあり、私だけ残って仕事を続けるということは十分に考えられたのですが、様々な事情から退職を決意しました。十五年も前のことなので、今の学生さんには信じ難いかもしれません。当時ですら「なぜ一時的に別居」という選択をしなかったのか、と言われたこともありましたので。実際その頃の都立高校の教員には、再就職には採用試験再受験の道しかなかったのです。それも年齢制限付きでした。最後の挨拶では、全校生徒を前にして、「私はここで一度死んだ」と言いました。この仕事が好きで、それなりにやってきたつもりの私の、正直な言葉だったと思います。
 帰国してからは、夫の仕事の関係で、つくば市の中心部にあった公務員宿舎に住みました。無職となり、平日の昼間から自転車に乗って買い物に出ている自分を信じたくない気持ちもあり、「私は何をしているのだろう。」と愕然とすることもありました。とはいえ、市報に載っていた市主催の講座に参加したり、地域の情報誌で見つけた公民館のサークルの運営を手伝ったりと、そういうことや家の中のことをすることも好きなこともあり、それなりに生活を楽しんでいたのも事実です。知人に言われて登録をしていた件の教育課のリストが回ったらしく、突然に常勤の講師の声がかかったのは、都立を辞めてから三年半たった時でした。二ヶ月という期限付きであったにもかかわらず、本人が戻ってこないまま更新を重ね、結局その高校で一年五ヶ月を過ごしてしまいました。ブランクが不安だった当初でしたが、始めてみればそれなりに慣れるものです。年度をまたぐのを機会に別の高校に移ることにしました。この学校が自宅から遠かったこと、延長を続けても、所詮穴埋め的存在であることは分かっていましたので、家の近くの私立高校の非常勤講師に応募したのです。これもまたおもしろい経験でした。空いた時間ができたので、エアロビクスの指導員養成講座に通い(エアロビクスはカナダではじめたものです)、中断していた通信教育も再開しました。カナダでの生活を書いたエッセイも出版しました(特に売ったわけではないのですが)。生活のリズムもでき、自分の今後が何となく見えてきた気がしたのもこの頃だったと思います。
 現在は、より近くの私立高校に移り、週五日、十二時間の非常勤講師をしております。自分が指導するエアロビクスのクラスが三つ、市内の障害者センターの有償体操ボランティアが二つ、お年寄りの集まる場所での無償体操ボランティアが一つ、と、週四~五回は「体操の先生」もやり、昨年倒れて大変な状態になっている実父と、三年半前に倒れて植物状態になった義母を抱えての毎日です。子供にも恵まれず、親との同居でもないため、周りからはかなり「楽でいい身分」と思われているでしょう。同年代は子どもの進路で悩み、親はまだ元気であったりするからです。
 私は今、45歳ですが、あの時都立高校の先生を続けていたとしても、今もそうしていられたかについては全く分かりません。自分自身の体調に加えて親のこと、結婚すれば、子供や相手の親兄弟や親戚のことなどに左右されるのは避けられないことです。私自身は「好きなことができるのは他人あってのおかげ」だと思っています。何かあったときに家族や周囲に恩返しができる状況であることが、私が最優先することでもあります。
 世の中では、一旦家庭に入った女性が資格を取ったりして再登場することを美徳と見る傾向があるようです。うらやましいと思う気持ちもあります。その中で私が今、自分に言い聞かせていることは、他人の地位や収入をねたまないことです。私のやっている仕事やボランティアはほとんどが一年契約であるため、いつも次の年は白紙です。毎日こんなに忙しいのに、と思うと、安定した立場で高給をもらっているであろう昔の仲間を思い、みじめになるもの正直なところです。でも、これが大半の女性の人生ではないでしょうか。紙面や画面に登場しない数々の成功者に出会い、自分の人生を豊かにしていけたら、と考えている日々です。先日、私の卒業した女子大の卒業生の集まりがありました。そこで初めて出会った方が、「みんな活躍していらっしゃるようだけど、私は何の仕事もしていない。でも、私は家庭を一生懸命守ってきた。」と言っていたのがいつも心にあります。こういう人との出会いこそ、私にとってはセカンドチャンスなのかもしれません。