私のセカンド・チャンス

E・Y(40代)

 私は、今ケアマネージャーとして働いている。ご利用者やご家族の状況、希望を配慮してケアプランを作成し、必要なサービスが提供されているか確認し、生活をサポートする。責任は重いが、やりがいのある仕事だ。
 この仕事に出会うきっかけは、8年前、寒い2月の朝だった。生協で一緒に活動していた友人が訪ねてきた。木枯らしに身を竦めながら、彼女は思いもかけないことを聞いてきた。「あなた、働かない?」
 周りには働きだしたお母さんが多い。私もと考えたことはある。だけど…。
 女子大の文学部を卒業した年は、就職難だった。なんの特技も資格もない私は、就職試験に落ち続けた。やっと貴金属、宝石の小売業の会社に就職したが、販売の仕事は性格に合っていなくて挫折。
 その後、コンピューターのソフトウェアハウスにOLとして転職した。しかし、25歳の時に骨髄炎を患い、1か月休職。「一生再発を繰り返す病気。再発をさけるため、立ち仕事や歩き回る仕事はしてはいけない」と医師からは宣言されてしまった。会社ではワープロ入力をする仕事に異動になるも、頸肩腕症候群にかかり、キーボードを打つこともできなくなった。31歳のとき、長男を妊娠中に会社が倒産、退職した。
 専業主婦となって家事育児に専念していた。長男は当時小学校2年生、ぜんそくの発作をしょっちゅう起こしていた。長女は、幼稚園の年中、家において働くことはためらわれた。
 特別な資格やキャリアもいらない。立ち仕事でも歩き仕事でもなく、コンピューターの入力も少ない。長男の調子の悪い時や長女の幼稚園の休みの時は休める。さらに学校や幼稚園の行事、PTAの役員の時は休める。あるわけない、そんな仕事。
 ためらう私に、彼女は続けた。「ここから1、2分のお宅で、脳梗塞の後遺症で歩行が不自由になってゴミが出せなくなった男性がいるの。月、水、金と朝玄関先に置かれたゴミを集積所まで捨てに行ってほしい。そして、あなたの都合のよい時でいいから、1時間半掃除と買い物をしたら、1週間で2時間働いたということで賃金を払う」
 それだったら、できるかも。それが、ホームヘルパーとして働きだした第一歩だった。
 ほどなく介護保険が始まり、ヘルパーの資格のない私は、働けなくなった。ところが、ご利用者さんから「あなたを信頼している。自費で費用を負担するので来てほしい」といわれた。
 こうなると、やめられない。働く人全員が出資し、話し合いで運営し、地域に住む人々の支援をする仕組みのワーカーズ・コレクティブという働き方だったので、給料は安い。ただ、主婦の仲間の集まり、事情は良くわかってくれて都合の悪い時は代わり、遠くへは送ってくれ、みんな助けてくれた。
 気がつくと、ヘルパー二級の資格も取って一人前のヘルパーになり、事務仕事にも携わり、理事になって運営にも関わっていた。一気に違う世界が広がり、楽しかった。ワーカーズ・コレクティブの理念を勉強するうち、大げさだけど地域の介護の一端を担っているという思いもあった。
 何となく疑問が積み重なり、もやもやとした気分になったのは、4年近くたった頃だった。ヘルパーさんの給料は、他よりかなり安い。何故?ワーカーズだから、いつでも理念を優先しなければいけない?
 そのころ、長男は中学進学目前、塾だの部活だの始まり、夜私がいないと長女ひとりになってしまうことも気になった。担当の利用者さんが少ない今辞めようと決意した。
 折しも、家のすぐ側で『デイサービスセンター5月開所』の看板を見つけ、「働きたい」と本社に電話してみた。無謀ともとれる行為だったが、幸運にも、パートとして採用が決まった。
 デイサービスの仕事も楽しかった。スタッフの多くは、20代で活気があるし、みんなでやっているという達成感もある。
 また、会社に雇われることでおのずと意識も変わった。時給以上働いていなければ、解雇されるかもしれない。できることは何か、ひとに認められることは何か。同時に自分自身のために、将来を考える余裕もできた。派遣で来る看護師さんたちも刺激になった。働きながら5年かかって正看護師になった方も珍しくない。「要は決断するかどうかよ。やってみれば何とかなる」私にも今からでも看護学校への進学を勧めた方もいらっしゃった。
 年齢を考えると看護師は断念したが、取れる資格は取ろうと持った。まず、介護福祉士、そしてケアマネージャー。
 40歳からのなにもないところからのスタートだったが、8年たってこの仕事に就けてよかった。今は、ケアマネージャーとして精一杯働きたいと思っている。