私の『セカンド・チャンス』…
K・C(50代)
今年1月で52歳を迎えた私は現在、高度救命救急を掲げた、約520床の地方では大規模な病院に勤務しています。県内からの様々な救急患者を受け入れています。私の勤務部署は血液浄化療法センター(透析)。他院からの救急患者と外来通院患者と多忙で緊張の毎日を過ごしております。40歳で看護婦(当時の名称)の資格を取り、入職させて頂きました。
高校卒業後、大手塗料メーカーの営業事務を4年、仕事バリバリのOL、休暇にはスキー、旅行を楽しみ、有給休暇は完全消化していました。趣味のスキーにのめり込み、スキーの上達のためスキー学校で冬を過ごすために退職。23歳からは大手オートバイメーカーの経理事務として社会復帰、その後、約9年間はお金を管理する毎日の生活が続きました。その頃、男女機会均等法の導入で今から思うとまだ、理解も深まっていない状況で、受け入れる女性側に不安や不満を持つ内容であった事もあり、私自身、訳の解らない区分に不信感を抱いた事を思えています。これをきっかけに、語学と美術の勉強を理由に退職、同僚とヨーロッパへ約1か月間の旅に出かけました。7か国の美術館を巡る間、ある国のユースホステルで東京からの女性3人組と部屋を共にする事になりました。ほぼ同年代、私たち同様に仕事をやめて旅に出たことなど、最後に聞いた事が今でも耳に残っていますが、再就職が決まっていると、帰国後は新しい病院で働く事になっていると話されていました。看護婦さん達だったのです。私たち3人は帰国後の就職は未定、あてなどまったくなく厳しい現実が待っていました。地方で年齢が高くなれば事務的な仕事はほとんどなく、アルバイト生活が始まりました。
その後、結婚を機にアルバイトは終了しましたが、働き続けたいと考えていました。すでに35歳、ますます仕事などなく、アルバイト復帰は反対され、それではと何か学べる事はないかと考えました。通信での勉強は今までも中途半端になっている事もあり、通信以外で学べる何かをと、考えました。ふと、アルバイト時代に新聞の片隅に主婦から看護婦になった方の記事が甦った事、更にヨーロッパでの看護婦さん達の事がダブリました。特に看護婦の仕事に興味や憧れがあった訳でなく、とにかく何か勉強をしたい気持ちが先行していました。途中で挫折してもいいから看護婦の勉強を始めてみる事にしました。まずは学校探し、たまたま医師会立の准看護婦学校の募集を知り、何と1週間後が試験日、高校入試問題の数学を妹に教わり、何とか合格。ところが医師会立とは医療機関に所属し働きながら、資格を得る学校と知り、今度は所属先を探さなければならず、誰一人と知り合いもなく、ほとんど高卒のピカピカの若者、私に子供がいれば娘に近い位の人達と一緒にやって行けるのか不安でした。それでも何とか自宅と学校の中間地点にまだ、新しく開設した病院に打診すると所属させて頂ける事となり、学生生活と就労がスタートしました。
早起きして、朝食を一人で食べ、病院に出掛け午前中働き、午後から夕方近くまで学校、そこからまた、病院に戻り仕事を終えるまでの長い一日を終える日々、今まで経験の無い、人との関わりのある仕事に新鮮さを感じた事を覚えています。また、看護婦さんの仕事振りを見て、続けられるのかどうか不安でしたが、直接的な仕事は資格も無いため、看護助手さんと同じ様な清掃や患者さんの身の廻りの世話や雑用が中心の内容でした。特に治療に関わる事がない代わりに、気楽に話相手になる事も多く、色々な場面で遠回りした今までの経験が何より役立つ事が多かったようでした。聞き役になる為には何か投げかけるきっかけが必要になります。年を重ね仕事を重ね、様々な経験が活きていたように思います。
2年間の準看生活はあっという間に過ぎ、準看取得後も、この病院にこのままお世話になれば良いかな?と思ったりしましたが、周りのスタッフや婦長の薦め、また学生仲間に主婦が3名おり皆で高看(正看護婦資格取得)まで頑張る事となり、高等看護学校に進みました。何しろ準看だけでは私自身、知識も技術も不安だらけだった事もありました。そして3人の主婦は良き相談相手となり互いに刺激を受ける仲で、現在まで共に働き続けています。
高看はまた働きながら夜間、3年間学ぶ学校で、ますます大変な毎日となりました。主婦・仕事・勉強とをスタートしました。仕事も今度は準看の資格を得た事により、患者さんに直接触れる事になりました。今までは遠巻きの仕事でしたが、患者さんに針を刺したり、血圧を測ったり、とにかくドキドキの毎日でした。採血など手が震え、上手く出来なくて沢山迷惑を掛けたと思います。こっそり主人に自宅で練習させてもらいましたが、しつこいと「勘弁してくれ」と断られてしまいました。自分らしく、無理なく正直に対応して行くしかないと思い、出来る事からゆっくりスタートしました。何にも出来ない自分が歯がゆかった事、人の痛みを感じる分、思い切りの悪さとの葛藤がありました。若者には若さ故の自分とは反対の良さが見えて羨ましくもありました。高看の夜の勉強は一日中、働いて来た後ですから、疲れから当然、授業中は睡魔に襲われている毎夜でした。寝にきている仲間が多かった事、私としては主婦で高年齢、意地でも勉強だけは負けるわけには行かず、看護婦の勉強を深めるために真剣に前を向いていた頃でもありました。テスト前にはノートは思い切り若者に貸して、頼りにされていました。反面、実習では若者に色々、手ほどきを受け少しずつ自信を貰った様にも思いました。その頃、私は若者達(クラスメート)に「お母さん」と呼ばれていました。
その私が高看2年生(38歳)で出産を経験し、本物のお母さんになりました。また、一つ仕事が増える現状となりました。ありがたい事に、仕事は産休を頂く事となり、院長、婦長に今でも感謝しています。そして、クラスメートの応援もありがたかった。何しろ出産を機に資格を取るのをあきらめかけたのも事実でしたので。
それでも出産後の実習、勉強はとても厳しく、睡眠不足、高齢出産で体力不足、頭はボーッとしてますし、記憶力の低下、挙げれば切りがありません。とにかく休憩時間があれば母乳を搾乳機で絞り、翌日の子供の栄養としていました。この頃の子育ては実母が中心で母の協力なしでは全てが乗り越えられない状況でした。何度も驚かされた娘の高熱、父の薬を飲んで急に寝込んでしまい、救急に飛び込んだ事もありました。そして1年半後、国家試験の前には腸炎になり1週間入院、小児科の狭い柵の中のベッドで光を気にしながら勉強をした事も懐かしく思い出します。愛情不足で育った娘も現在、中学1年生になりました。寂しい思いを何度もさせてしまった事が心残りの乳・幼年期です。現在も仕事、自分中心の私を遠くから見つめている様に思いますが。
無事に国家試験合格、さて働こうとしたらお世話になった病院が経営困難で閉院、これからどうしようとしていた所、看護学校の先生から現在の病院を勧められ、異例の40歳、経験なし、子連れを入職させて頂く事となり、現在まで約12年間お世話になっています。
振り返ると、「セカンド・チャンス」が看護師(現在の呼び方)だったのかどうかは判りませんが、無から挑戦した事、資格を得た事、ゆっくりではあるが走り続けている事に自分の事ながらすごいと思います。血液を見たり汚物を処置したり自分では一切、関わらないであろう職域であった事を行う自分がいることに、決めつけてしまう事で世界を狭くしていないか、自分自身の勇気を確認していく必要があると実感しています。
求められる事が多く、与え続ける事にストレスを感じてしまう自分の弱さを反省しながら、人間性を活かせる、また、こんな私でもまだ何か出来る事を探しながら、患者さんの笑顔に支えられる毎日です。緊張の無い日は一日として無く、無事に終了するとホッとする毎日です。理解し合える良いスタッフにも恵まれ、支えられている事に感謝しています。
私事ですが、8年前には癌患者になりました。この経験は色んな場面で役に立ち、より患者さんを近い位置で理解する事につながっています。いつまでこの仕事を続けられるか?体力、気力等々、不安な事が山積みですが、また次の角を曲がるときは、また何かが見えるとき、何かやりたい事が現れた時だと思います。
チャンスは向こうからやって来る事もあるのでしょうが、そうそう無く自分で自分の背を押す事が出来るかどうかではないかと思う。そろそろ次の手探りを始めている自分を楽しみにしている。また、違う自分と出会う事に…。