私のセカンド・チャンス

T・S(50代)

 私は、高校3年生の時、父を亡くし、大学受験を断念した。おろおろする母を見て、何か資格を持たなければという思いをさらに強くした。高卒後、電力会社に入社、翌年の春に、栄養士をめざし、専門学校を受験、合格したものの、1年では退職金も出ないと知りこれもあきらめた。その後、社内結婚し、自然豊かな埼玉にマイホームを持ち、気付くと子供2人の母になっていた。子育ては、自分の手でと思い過していた。都内へ通勤の夫を朝、送り出した後、2歳と半年の子供達が起きて来るまでの間、新聞を読んでも、洗濯を終えても時間が余り、考えた。子育てにも役立ち、しかも資格が取れるものと。通信教育で保育士をめざすことにした。ピアノのレッスンも再開し、コーリューブンゲンの課題曲を茶碗を洗いながら何度も歌った。講習会や試験の時は近所の友人に子供を預け、下の娘が、幼稚園に通う頃、保育士資格を取得した。そしてその娘が9歳になった頃、「このまま専業主婦で過していて良いのだろうか。」と思い始め、「社会との関わりを持ちたい」と思っていた時、食にこだわって有精卵の共同購入をしていたことが縁で、「自主幼稚園」で、保育者として参加することになった。既製の幼稚園ではなく、自然の中で生活し、子どもを育てたいと考える、親と保育者の共同保育の場だった。日本人だけでなく、スペイン、アメリカ、イギリスのお母さん、お父さんも参加していた。その時、保育者として働きながら理論を勉強しようと、日本女子大学通信教育課程児童学科で、学び始めた。スクーリングもあり、科目試験もあり、保育者としても時間を取られての生活だったので、子供達は、その頃のことを「お母さんに居て欲しい時、いつも家に居なかった。」と言った。「そうか、ごめんね。」と、今は思うけど。しかし当時は、レポートを書くのにピアジェの発達心理学の理論と実際を、保育現場で実験、比較して楽しんで学んでいた。森上史朗先生に卒論の指導を受け「自然とのかかわりの中から育つもの」と題し、幼児期、日常生活の中で、自然とかかわり感性を育てることが大切であると結論づけ単位を取得、卒業することができた。
 9年間の保育者生活の後、埼玉県の福祉事務所の家庭児童相談員の応募がきっかけで、団体職員を経て、母子相談員の仕事に就いた。現在は、川越市の母子自立支援員として勤務。名称は変わったが、「母子福祉」の仕事に関わって今年で14年目になる。
 さて、今回のテーマである、「キャリアを中断した後でもセカンドチャンスをつかむ」ということでは、キャリアの経験が無い私なので、当てはまらないが、「セカンドチャンスをつかむ」、という点では、少しお話しできることがある。それは、私が50歳で離婚し、再出発したということだ。息子と娘が思春期を迎え、子の進路のことで、夫と価値観が違った。「子供のため」という所で一致しても、その「手段」で、どうしても譲れないものがあり、子供2人が大学卒業後、夫と私も、それぞれ自分らしく生きることを選択した。
 相談員をしながら、自分の悩みをかかえていては、良い相談はできないと思い、カウンセリングの勉強を始め、2年間、私の話しを聴いてもらい、自分に問い、覚悟して決断した。離婚が成立した時、心がスーッと軽くなったのを覚えている。また、2年間の別居中自立するためにと考え、社会福祉士の資格を取ろうと思い立ち、これもまた、全社協の通信教育で。相談員の仕事を5年以上経験していることから実習免除になること、今の仕事の先にある道ではと思い始めた。葉山でのスクーリングも若い人達に交じり、旅館に泊り、通学、例の9・11の映像は、旅館のテレビに、百円玉を入れた時、目に飛び込んで来て、一瞬、何の事か判断がつかなかった。しかし、社会福祉士の試験は、根気がいるものだった。もう勉強は、これで終りにしようと思った。幸い試験に合格、資格取得したものの、収入アップには繋がっていない。しかし、今まで過して来たプロセスで、とても大事なものを得、人として成長させてもらったと思っている。華やかではなかったが、自分の出来る事を続けて、人との関わりのチャンスを得、学ぶことが出来た。そして今日まで、仕事を続けることが出来た。趣味の太鼓も15年継続し、心豊かに過しているが、自分自身の小ささも又、知った。相談員として人の話を聴くには自分を知ることからと学んだ。
 再出発に年齢や過去のキャリアにこだわる必要はないと私は思う。キャリアを中断するもしないも考え方は様々だが、女性の生き方として、人として、自立の心を持って生活することが大切だと思う。キャリアを中断しても、自立の心を持って日々精進していれば、その気持ちさえあれば年齢に関係なく、いつでも、再出発は可能だと私は思う。