人生の展開の楽しみ
松崎 房子(60代)
戦中派の私の場合が現代の女性たちに、参考になるのか多いに疑問だが一つのケースとして述べてみる。女子高を卒業して就職したのは昭和三十四年春のこと。五年ほど勤めて結婚し三人の子どもを授かった。六歳年上の夫は「女性は家庭を守り子どもは母親が育てるのが一番」という考え方。戦争で夫を亡くし否も応もなく子どもを舅・姑に預けて働かざるを得なかった実母も夫と同じ考え方であった。昭和四十年代は高度成長の時代で、男性たちは企業戦士と呼ばれ仕事仕事の日々だった。兄弟姉妹のない一人っ子の私には子どもの扱い方も知らず悪戦苦闘の連続だった。
仕事漬けの夫でも決して収入は多くなく、家計のやりくりに四苦八苦でヒステリックになる自分を抑えられず、自己嫌悪の母親だった。こんな母親は傍に居ない方がよほど子どものためだと思っていた。
経済的の助けにもと働きに出たかったが地域の事情からそれもままならなかった。夫は兄と小さな会社を経営していた。“おっちゃんの奥さんが働きに出るなんて会社が危ないといううわさが立つ”と兄嫁にたしなめられる始末。差しさわりの無いところでPTA活動や公民館で学習するのが唯一自分の世界になった。地場産業の衰退で会社も整理再出発を余儀なくされる羽目になった。
新潟県十日町市公民館は各種学習講座が盛んでその活動振り・成果が認められて二度も文部大臣表彰を受けた公民館である。第三子が保育園に入ったころから婦人講座へ週一回夜間通い始めた。宿題としてテキストを必ず事前に読み・事例発表をする・まとめとしてレポートの提出を求められる。なかなか厳しく息切れがしそうだったが、その充実感・手応えは充分だった。お陰で東京から転入し地域もよく知らない、友達も出来ない、状態から一歩一歩抜け出し根を張ることが出来るようになった。雪国で豪雪地帯でもあり地元の人々の口は大変重い。しかし一度仲間になると律儀でその人情の細やかさ・情の深さは計り知れない。そんな中で二つの大切なグループの一員になれた。そしてその二つとも私の人生に大きな比重を占めるものである。
その一つが婦人講座・婦人学級の学習からスタートしたミニコミ紙“ゆずり葉”の発行である。高齢者の介護・看護の問題が重要視され始めていた。そんな中で老後の学習をした学級生たちで何か出来ないか?実践に移すには何が出来るか?現在のヘルパー的な仕事、給食サービス、どれも自信が無い。指導の講師や担当主事からお年より向けのミニコミ紙を発行してみないかと勧められた。私自身はPTAで広報の経験も少しはあったが未経験者の方が殆どでヘルパーや給食サービスよりもっと自信が無かったので揃って大反対。
今にして思えば公民館の方では既に方向性が決まっていたようだ。ご指導くださった講師やお世話になった公民館への手前これは逃げられないと感じ、精々2~3回発行して義理が果たせたらそれで終わりにしようと、逃げ腰で取り組んだ。ミニコミ紙のタイトルを考えてくる宿題すらも候補は少なかった。
前述の事情を察知した私は“ゆずり葉”と考えて行った。芽吹きの勢いのよさ・赤い芽のあでやかさ・つややかさに惚れ込んだから。
その上次世代の葉がしっかりすると自然に古い葉が落ちいつもみずみずしい。ゆずり葉という名前も譲り合いに通じる、よい名前だと自負した。候補が少なかったので決定し、はからずも名付け親になってしまった。逃げることしか考えていなかったのに、読者であるお年寄りたちが気に入っていろいろと支援して下さった。手探りだった発行も何とか軌道に乗った。そして二十年余も続いている。
もう一つは戦争に反対する草の根運動である。これも公民館の青年大学講座からスタートした。タイトルは「太平洋戦争を知っていますか?」だった。戦争で父を失ったとはいえ戦争を知っていますとはとても言えない。
青年大学講座の青年の二文字に躊躇しながらも受講した。終了後担当主事を囲んで更に話し合いのグループが出来た。勿論戦争を知らない若者たちばかりで、オブザーバーに徹するつもりがいつの間にか一番といえるほど熱心な会員になっていった。このグループで知り合った仲間の経営する衣料品店(従業員百人ぐらい)の総務・経理事務員として請われて四十八歳で入社することになった。若者の職場でお局扱い。身の置き所も無かった筈が定年まで勤めるうちに、会社のお母さんと認めてもらえる迄になり、好きで仕方が無かった総務・経理事務の仕事を自分の好きな様に任せて貰え、大満足のうちに現役を終えることが出来た。
現代の若い女性はもっと資格やスキルを身に付けておられるだけに、それが生かせなくて焦りを感じていらっしゃる方も少なくないのでは?何のライセンスも無く・学歴も高く無い・特技も無い私でも結果的には満足のいく形で定年まで全うすることが出来た。易々と見通せるほど人生は単純ではない。母や祖父母を抱えた私が結婚できるとはとても思えなかった。ところが結婚もし母親にもなった。世間も自分も刻々と変化している。どんな展開があるか予測は付かない。成るようになり、成るようにしかならないというのが私の持論。むしろこれからを楽しみに毎日を悔いなく過される事を願っている。
勿論私自身も今後の展開を楽しみに暮らして行くつもり。