私のセカンド・チャンス
横地 れい子(50代)
私は今県立高校で英語を教えています。職場でも家庭でも充実した喜びにあふれた日々を過ごしています。また、経済的にも不安のない生活を送っています。
この今の幸せは20年前のセカンドチャンスが与えてくれたものです。それは私の人生に大きな転換をもたらしました。静から動へ。暗から明へ。ネガティヴからポジティヴへ。鮮やかな転換でした。20年前私はこうつぶやきました。「採用試験。合格したらすてきだけど、そんなドラマのようなこと…私の身に起こるはずはないわ」。現在の私は「セカンドチャンスの体験談募集?私のためにあるような話だわ。よし、優秀賞取ろう!講演をするときは何を着ていこうかしら?」という意気込みでこれを書いています。
専業主婦を13年やった後で、私が高校教師になれた要因について、自分なりに分析をしてみたいと思います。
1. さまざまな幸運(ラッキー)
他の女性の役には立たないのかもと、少しためらいを覚えるのですが、幸運について何よりも先に書かなければなりません。
最初の幸運は人との出会いです。一人目は通信教育で教員免許状を得たという同い年の女性。彼女に教えてもらって私も同じ道を通りました。二人目が或る女性評論家。故郷を離れて暮らすママさん大学生の教育実習を受け入れてくれる学校は見つからず、あきらめかけていた私に「どんな学校にでも出向き、何度でもお願いしてみなさい」と励まして下さいました。3人目がそれを受けて訪ねた高校で、相手をして下さった教務主任の先生。教育実習を受け入れてくださり、さらに、実習をする条件として、教員採用試験を必ず受けるようにと言って下さったのです。
次の幸運は採用試験応募の段階で起きました。全国のほとんどの自治体は、教員採用に35歳くらいまでとする年齢制限を設けていましたが、静岡県はそれのない県だったのです。出身地の愛知県では受験資格さえなかった私だったのですが、夫の転勤について来た場所で、道が開けるということになりました。
そして極め付きの幸運が採用試験で起きました。一番配点率の高い英語の長文が、以前に読んだことのある文章、さらにリスニングの問題も、3つのうち2つまで知っている話だったのです。この幸運が20倍の競争率を勝ち抜けさせてくれました。
2. 勉強だけは続けてきたこと
高校卒業時、英語教師になりたいと母に無理を言って、大学に行かせてもらいながら、学生運動との関わりや恋愛沙汰で身体をこわし、私は教職単位ゼロで卒業してしまいました。ただ、英語と人にものを教えることはずっと好きでした。OLをやっていた時も、専業主婦になってからも、英語の勉強だけは続け、数々の英語の検定試験を受けました。それが採用試験の幸運につながったともいえるかもしれません。
3. 人生観の変化
私は26歳で職場結婚をし、何も迷わず専業主婦になりました。自分が職業と家庭を両立できるとは、当時は思えなかったからです。気楽で楽しい専業主婦に、大きな変化が起きたのは結婚8年目でした。私の父を含め身近な人が3人も相次いで亡くなったのです。私は大いなる無常観を覚え「やりたい事をいつか、いつかと先延ばししてはいけない」と考えるようになりました。
同じ頃、夫は仕事に生きがいを見いだしていました。夫が認められ、成長していく姿を目にして燃え上がるような嫉妬を感じました。「私だってあなたと同じくらい責任感を持って仕事をしていたことがあるのよ!」そして、「このまま老人の世話と、子供の成長を見守るだけではイヤ!どんな形ででも社会に出よう」と決意を固めました。
4. 夫の協力(フェアな考え方)
夫の両親のおかげで、夫はフェアな考え方を身に付けていました。義父は義母を尊敬していて、それをいつも態度で示していましたし、義母は外で働くことはなかった人ですが、旅行好きで、留守を預かる子供たちにしっかり料理を仕込んでおいてくれました。
夫と私は全共闘世代の価値観を共有しています。私は一度も「食わせてもらっている」という言い方をされたことがありませんし、大学の授業料等にためらいなく夫のお給料を使いました。大学のスクーリングや試験には夫は快く送り出して、息子の面倒を見てくれました。
セカンドチャンスをものにして20年、教師という職業は今や私の人生の最も大きい部分を占めています。あの時、親族の反対にあい「離婚して私に自由を頂戴!」と夫に迫ったことも、今は笑い話になりました。あと2年となったこの仕事を、いとおしみながら、大いなるエネルギーを注いで、まっとうしたいと考えています。