セカンド・ジョブ、セカンド・ライフ
匿名(50代)
「この人とは、やっていけない。」私の心の中の反旗は翻ったまま。いつか三行半を突きつけて、颯爽と第2の人生を歩んでやる、とあのころの私は鼻息が荒かった。結婚して6年、子どもにも恵まれ、さあこれからという時、私は経済的自立への模索を始めていた。
振り返れば、オイルショックの後遺症が残る1975年、高校生だった私は某航空会社のスチュワーデスに採用され、22歳で職場結婚をしたあともしばらく共働きを続けていた。しかし時差や腰痛に苦しみ、体はボロ雑巾のようになり、やむなく7年間のフライトにピリオドを打った。
退職してからの職探しは、また社会とつながれるという喜びと期待でいっぱいだった。ところが世の中そんなに甘くない。大きな壁にぶち当たっては突き飛ばされ、結局、志は見事に空中分解・・・。そうか、私には手に職もなければ特技もない。ただあるのは、7年間空を飛んでいたという事実。むなしくて無性に悲しかった。
・学びに開眼
学歴社会は崩れたというけれど、とんでもない。まだまだ学歴の2文字はしたたかに存在していた。「それならば、大学を出てやろうじゃないの。」とタンカを切って、気づいたら通信制の大学入学願書を手にしていた。今さらセンター試験など受けても結果は見えている。高卒であれば入学可の楽勝コースを選ぶというところが、いかにも私らしい。
でも入ってみると、決して楽どころか苦難の連続だった。なにせコツコツと独りで勉強し単位を取っていく気の遠くなるようなシステムなのだ。やはりここでも、世の中甘く見たらあかん、である。なんとか単位を稼ぎ、まあそれなりの成績を修めたごほうびとやらで、卒業年次の最後の1年間を現役の大学生と、日中大学で学べる機会をいただき、オバサンは若者たちと学生生活を謳歌することになる。とにかく、その1年間は、勉強することがこれほど楽しいこと、という意識の大変革だった。
・シンリに突進
対面授業はいい。何たって孤独じゃない。あっという間の1年の中で、私がやりたいこともほぼ固まった。それは、ある心理学の授業での衝撃的な出来事が私の背中を押したということかもしれない。その日はHIVカウンセリングの専門家の話を聴く授業だった。そもそもカウンセリングというと、カウンセラーが相談者を「助けてあげる」と思っていた私だが、「患者さんに寄り添って、共存・共生することです」という先生の言葉に、頭をガーンと殴られたようなショックを受けたのを覚えている。自分の傲慢さを恥じ、同時にそういう自分の内面の一部を見ることができ、さらに他の自分にも向き合ってみたいという気持ちがこみ上げた。そうして、私のカウンセラー人生がスタートすることになる。
・大学院へ、そしてセカンド・ジョブへ
今や、目標は臨床心理士になってカウンセラーとして働くこと、そのためには大学院に行かねばならない。そこでの勉強は、家事と育児(子どもは3人に増えていた)で、身も心もへとへとだった。若者に混じって研究し、修士論文を書き上げたときの達成感といったらもう言葉にならないくらい。こぼれ落ちる涙が今までの苦労を喜びに変えた。
・次なる夢
幸いにも、大学院を出たあと、知人の紹介でスクールカウンセラーとしての職を得ることができた。1年間の経験を積んで、臨床心理士の資格取得試験を受けた。努力が報われ、合格を手にしたとき、思わず心の中でガッツポーズ。
現在、私は大学でカウンセラーをしつつ、非常勤講師として授業を持ち、いわゆる第2の人生を確実に歩み始めている。ここまで来られたのも人との“つながり”のおかげ。そういえば誰かが言っていた。「人が人を動かす」と。
私の夢はまだ先にちゃんと取ってある。それは、精神疾患を持つ人や発達障害の人たちが社会とつながり、いきいきと夢を抱いて働ける居場所を作ること。とりあえず、ちっちゃなレストランを開きたい。きっと、独学で取った調理師の免許も眠りから覚めて活躍してくれるだろう。
・夫、その後
そうそう、夫とは、というと、幾度となく波風が立ったけれども、それが私たちを成長させてくれたと思いたい。むしろ、私をセカンドチャンスに向かわせてくれてありがとう、と感謝せねばならないかもしれない。あのカチカチ頭の夫は、いまや、ストレスをためて帰ってくる妻の「専属カウンセラー」として君臨している。なので、三行半は、今のところ出番はなさそうと言っておこう。