私のセカンドライフ 里山で、夢にチャレンジ!
畑山 静枝(50代)
夜の帳が降りると、森は深い海の底に沈む。私はこの森の中の、ログハウスに通ってきては、里山再生のボランティア活動をしている。
今日もたくさんの親子連れが来て、カマドでご飯を炊いたり、マキ割りをしたりと、昔の暮らし体験を楽しんだ。雑木林では、ブランコ遊びなどに夢中になっていた。
夕方、すべての後片付けが終わり、私はいつものお気に入りの机に座るのが日課となっている。今宵もふと前の窓ガラスを見ると、闇の中に、呆けた“アンコウ”が浮かんだ。夜になると決まって現れる私の分身だ。
――アンタも歳取ったもんだね、と言うと、
“もうじき還暦だもんね、お互いに。無理してるんじゃないの?まさか、後悔してない?”
――とんでもない。後悔なんかするもんかね。好きでやってるボランティアだもの。いま、ようやく夢が叶ったんだよ。いまが一番幸せな時なんだからね、と反論した。
平成16年2月、私は定年まであと4年を残しながら56歳で会社を希望退職した。職種は新聞社の経理担当で、21年間勤めた。
周囲は猛反対した。社長も同僚も私を引きとめた。しかし、私には、里山で暮らして、ボランティア活動しながら、ふるさと全国エッセイ誌の研修がしたい、という夢があり、何としてもそれを叶えたかった。会社の合併による希望退職者募集に、チャンス到来とばかり、一番先に手を挙げたのだった。
先行きの生活不安は多少あったが、4年後には確実に定年が来る、その時からの第二の人生スタートでは遅い、と私は直感していた。今なら、まだ体力、気力もみなぎっている。そして少々の財力もある。この機を逃すな、と内なる声が聞こえ、私はそれに素直に従った。その頃から“アンコウ”が見守ってくれていたということか。会社も合併して新しくスタートするのだから、私の仕事は若い後輩に任せて、私も第二の人生、セカンドライフにチャレンジしよう、と思いきったのだ。
それまでの私の人生をざっと振り返ってみると、山あり谷ありの起伏の激しい人生だ。
昭和23年生まれの、いわゆる団塊世代の私は、幼少時ずーっと虚弱体質で、肺炎で二度も死にかけている。戦後の食糧不足と、母が40歳の時に9番目の末っ子として、栄養不足の母体から生まれたことにもよるだろう。
しかし、豊かな自然いっぱいの田舎で、のびのびと育った私は、昭和レトロブームを巻き起こした昭和30年代に、多感な少女時代を過ごせたことは、いま思うと幸せだった。ちょうど日本が高度経済成長期へ向かう頃で、まだ夢や元気がいっぱいみなぎっていた。
この頃の自然環境が、私を後に里山へと駆りたてる重要な原風景・要因となっている。
ベビーブームのまっ最中に生まれた宿命で、何をしても狭き門をかいくぐり、高校受験、就職、結婚までも、何かしら競争を強いられて生きた。そのおかげか、私には、雑草のようなふてぶてしさもあるようだ。
というのも、結婚して5年目、喫茶店をいっしょに経営していた夫がガンでこの世を去ったとき、幼いふたりの子どもを抱え、一瞬目の前がまっ暗になったが、その後“母は強し”のことば通りすぐに新聞社に勤め、元気で働き子育てしたのも、この背景がある。
仕事をしながら、好きな詩やエッセイを書き続けた。いつかは子どもたちは私から巣立っていく。その時、オロオロと、子どもにしがみつく母親だけにはなりたくはない。仕事以外の夢や生きがいを見つけ出しておかねばと思っていた。そんなとき、運命的な出会いがあったのだ。
詩を通じて知り合った、東京で印刷出版業を営むS編集長が、ふるさと全国エッセイ誌を創刊した。私は迷わず愛読者になった。ゆくゆくは、この雑誌の編集もしたい夢も抱いた。そのS編集長が、東京からふるさと山口へ帰り、ふるさとへの恩返しとして荒廃してゆく里山を再生したいと言い始め、私や愛読者仲間は、その夢や想いに共鳴した。その活動の第一歩として、山口市小郡郊外の里山を選び、仲間とのログハウス作りが始まった。
この頃、子どもたちは大学生、高校生と成長、私の人生もようやく順風満帆と行きかけたが、皮肉にもリウマチになってしまった。激痛に耐えて仕事をしていたが、51歳の時、薬害で肺炎になり、あと4時間であの世行きという瀬戸際で九死に一生を得た。三度も肺炎で死にかけ助かるとは、生かされた命に感謝しながら多くの人たちに何か恩返しをせよ、ということにちがいないと私は思った。それは、里山で生きてお返しするしかない、と思うと、私の心は明るく未来がひらけてきた。
人生、七転び八起き、転んだ先にも花は咲くと信じて――。今私は、健康生きがいづくりアドバイザーの資格も取り、エッセイ誌の編集長にもなって、充実した毎日である。
“今からだね、アンタの青春は。がんばりな。”
“アンコウ”の励ましに、コクリと頷いた。