私のセカンドチャンス
篠田 ちゑ(50代)
初めまして、私は、寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝る所に住む所やぶら小路のぶら小路パイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長九命の長助、有限会社TOOVトゥーブの篠田ちゑと申します。
栄養士になる為に福島女子短大(出身宮城)へ入学、ビラ貼りで捕まった友を助けてくれた弁護士に憧れ、卒業と同時に通信で中央大へ2年編入したが、通学途中で結婚した。その時自分に誓った。いい子にならない。ゴマすりしない。表裏のない自然体でいよう。子供がいても外へ出ようと。その後、家の中だけだと取り残されそうで、子供一人産む毎に国家試験を取ろうと。
長女竜、0才から乳母車で映画鑑賞、一年間で100本は見ている。「事件」の試写会で松坂慶子に抱っこされた。彼女とは、八丈島が舞台の映画「るにん」で再会した。28年ぶり、お互いに、いい年を重ねたと思った。今、初めて竜べえと7日間の韓国旅行中これを書いている。物事に積極的で、物に動ぜず、初対面の人とも話せるいい性格に育ったと思う。竜べえを産む時に、保母を受験、講師の話に子育てへの不安が消えた。あの瞬間、今でもそのまま受け入れられて子育てが気楽に出来た。
長男史(フビト)、保母として働いていた。調理人の為にと一緒に調理師の勉強をした結果的には私だけ合格した。無認可の保母の仕事は、子育てと保育運動の担い手だった。親と保母の共同経営、保母栄養士として、子供達の為にと3年間完全燃焼した、一生やって行こうと思った。しかし保育運動が大きく転換した時であった。経営が理事会形式となり、直接の親ではなくOBが口を出して来て、納得できずやめた。
次男宇(リラト)、保母から法律の世界へ戻った。司法書士の補助者となり受験を開始した。肩こりなので水泳教室へ通った。おかげで全種目泳げる、おまけはバタフライの講師資格まで取れた。この間行政書士が国家試験に移行した。次男が生まれて8ヶ月目の時、東京都NO.2の証書をもらった。試験の課題作文「女性とスポーツ」水泳教室での78才の女性が平泳ぎのようなバタフライを200mゆっくり泳ぐ姿を書いた。題目との縁を感じた。
次女要(カナメ)、越谷で事務所兼2世帯住宅を建てた我家の黄金時代、3階建の豪邸、夫の仕事も順調だった。妊娠7ヶ月で、宅地建物取引業主任者を受けた。司法書士の時の民法が大いに役立った。合格、目標一応クリアである。
さて、夫の方は脱サラして一人でやっていた。私はその間経理のみやって、行政書士と宅建業、行政書士は理事活動にうつつをぬかし、全くのヒモ状態だった。この間1+1=2ではなく-2、-3であった。夫婦の力は、1+1=2ではなく、3にも5にも計り知れず大きくなる事を実感しているのが今である。
夫は常に私が営業に向いていると言い、私は、32年間踏み出すことはなく、13年前に八丈島へ移住した10年間は、私にとってのバブル期そのものであった。子供4人は大学へ、すべて私立、最後の子の時には、自宅を売却宅建業最後の仕事となった。全くなさけない話である。そのお金には足がついていて、3年間しか持たなかった。
夫が八丈島へ移住したのは、コンピューターは人間をダメにする、自然に帰って生きようと、クリーンエネルギーの開発をする為だったが、無職の長男の為再出発した59才の時。
私は、今の健康ブームの先を考えて、八丈高校で調理人をして得たお金で、ウェルネスマネージャーと健康運動士を取得し、ついに私のやる事が決まったかに見えたが、夫と共にやろうと54才の時再出発した。54才までに生きて来たすべてが、積み重ねで無駄な事は1つもない、この営業活動をする為のものだったと確信している。八丈島では“あしたば”1束100円で朝市で販売していた。消費者の立場の反対側から見えて来る物、新鮮だった。今度は1台120万円の仕事である。「カラー印刷監視装置」の製造販売である。印刷物が正確に刷れているか、オペレーターさんの目の代わりになる物、世界初で世に出した夫の作品。
1年目15台、2年目34台、3年目は長男が結婚、メンバー一人が増えて華やかになった。妊娠を機に営業が停滞、代わりに物作りへ、これがまた楽しい、あきないで1日中やれる自分に、営業よりいいかなあ何んて思ったものです。目標は下方修正。しかし暮れに一社から15台の注文。決算期の都合で、年末6台、3月まで9台としたが、そのまま加算すれば結果は38台、やりました。
3月まで忙しい現実の時、竜べえとの旅行を入れたドジな私。「お母さんじゃしょうがない、空気読めないものね。」と許してくれる、優しい家族、本当に感謝している。
ある日、夫がコピーをくれた。一十百千万億兆京垓𥝱穣溝澗正載極、恒河沙、阿僧祗、那由他、不可思議、無量大数、21ヶの数の単位、無限大と思っていた数が誤りだったこと、夫の安正の正が0 40ヶの単位、おまけに寿限無も1日で暗記出来た、自分でも不思議と思う位、脳が活性化しつつあることが実感できた。夫もドジな私が覚えられたので一安心とか。
人間の脳は5%位しか使わず、95%は眠っているとか、どんどん使うべし。
4年目の今年、新たに無職の次男の登場、即長男の独立宣言、子供も産れる由、いい機会と親離れの時、夫は子の為、63才の再出発をした。2月16日に引越する。
私は70才までは子供が必要とするまで待機しつつ、営業活動を継続する。営業は楽しい商売。70才になったら、自分の体を使っての健康運動士の仕事をやろうと思っている。この営業をする為に65kgあった体重を1年間で10kg減少させ、洋服もほとんど入るようになり、毎日、ラジオ体操、腹筋、腕立伏せ300回これが日課、この経験を70才まで継続させ、その時の為に、この2~3年の内に管理栄養士を取ろうと思う。無認可での3年間の実務経験がここに生きている。本当に何一つ生きる事に無駄という事がない事、若い人達に伝えたい。最後の国家試験が初めて自分の仕事の為に受ける、何とも不思議な巡り合せかと一人微笑む自分がいる。家族に乾杯である。