女性のセカンド・チャンス
M・H(30代)
「大きくなったら、何になる?」「先生!!」
物心ついた頃から私は、必ずこう答えてきた。それ以外の職業は考えられなかった。
私が大学を卒業し、就職することになったのはバブル崩壊直後。おまけに、第二次ベビーブーム世代。先輩達が五社、六社と内定をもらっていたのに、一社の内定すら取れず苦しむ学生がいた。教員志望の私も、現実は厳しく、東京都の教員の採用は各教科一~二名。四百倍というすさまじい倍率を出した時でもあった。そして就職の決まらぬまま大学を卒業し、塾でアルバイトをしながらチャンスを窺っていた。半年後、私立の女子高の産休代理講師として採用された。産休明け後も、運よくそのまま講師として雇ってもらうことができた。しかし、正規の教員になれぬまま、結婚し妊娠。出産のためには辞めざるを得なかった。こうして私の教員生活は、二年半という短期間で終わってしまった。
教員を辞めた半年後に女児を出産。その二年後には男児を出産。子育てに明け暮れた。元来、どんな環境でも楽しみを見い出す私は、子どもの洋服作りやパン作りにチャレンジ。また、インテリア雑誌を読み漁ってリフォームしたわが家は、雑誌に掲載されたりもした。専業主婦を存分に楽しんだ。
けれど子ども達が幼稚園に通い出し、時間的余裕が生まれ、パート勤めを始めると、何とも言えないくすぶった想いが奥底にあるのを感じた。私はこのままでいいのだろうか。優しい主人やかわいい子ども、不自由ない生活……確かに妻として、母としての幸せがあった。でも……一個人の人間としてはどうなんだろう。悩みに悩んだ末、主人とも相談し、下の息子が小学校に上がる二年後を目途に教員へ復帰することを決断した。年齢制限的にも、そこがタイムリミットだった。十年近くのブランクもある。一朝一夕の勉強では、どうにもならないことは明白だった。だからこそ、あせらずに腰を据えて勉強することにした。久しぶりの勉強。楽しかった。ただひたすら楽しかった。すっかり単語や文法を忘れている古文も、時代と共に変化している教育用語も、その全てが新鮮で楽しかった。家事を終わらせ、子ども達が寝た後が、私の勉強時間だった。若い頃のようには脳は吸収してくれない。しかし、子育てを経験していることによる強みもあった。教育心理などは実体験からすんなり理解できた。学生の頃は机上の空論であった、成長する子ども達が目の前にいるのだから。また、暇さえあれば読んでいた本や新聞が、一般教養を高めた。学生の頃は苦手だった政治や経済も、主婦になれば身近なものだった。こうした勉強の成果もあり、念願通り二年後、私立校で働けることになった。ただし、講師として……。
最初の一年は夢中だった。十年のブランクを経ての復活。家庭との両立。子どものこと。すべてにおいて精一杯だった。若い先生からは刺激を受け、年配の先生方からは、子育てのアドバイスも受けた。でも、何か、物足りなさを感じ始めていた。このまま講師でいれば、好きなことを仕事にしながらも、子どもとの時間が充分に取れる。周囲の人からも、まだ子どもも小さいし、今の状態が一番いいんじゃないの?と言われ、それに笑顔で応えていた。でも違う。私の心の中にはそういう想いがあった。そんな時、若い先生の言った一言。「でも教員やるなら、やっぱり目指すは担任だよね。」そうだ。それなのだ。私の本当にやりたかったこと。自分のクラスを、担任を持ちたいのだ。そのためには、講師のままではだめだ。専任にならなければ……。私は再び勉強を始めた。幸い年齢制限が上がり、まだチャンスが残されていた。必死に勉強し、今年、とうとう東京都の採用試験に合格。この四月からは、小さい頃から夢見た教員になれる。回り道の末、十五年越しに叶えることができたのだ。
正直、合格したものの、迷いはあった。今以上に忙しくなり、子ども達はどうなるのだろう。大きくなったとは言え、まだ小学生。難しい時期はこれからなのだ。子どもがかわいそうと言われるのも、胸が痛かった。でも私は三十六歳。平均寿命を考えれば、まだ半分以上ある。くすぶる想いを抱き続けたまま、残りの人生を過ごしたくなかった。しかし……子供が辛い時にそばにいてやれなかったら……悩んでいた時に、同じ夢を持つ仲間が言ってくれた。「せっかく夢が叶ったんだから、まずやってみようよ。もし、どうしてもダメなら、その時に教員をやめればいいんだよ。」この言葉が私の背中を押してくれた。そして娘の作文の中に「一人でるす番をしているとこわいこともあるけれど、私は母に仕事をやめて欲しくありません。」という言葉をみつけた時、大丈夫だと思った。私の夢を認めてくれた家族がいる。私の夢を支えてくれた仲間がいる。夢をあきらめずに努力した自分がいる。大丈夫。まだ不安はあるけれど、夢を叶えて新しい人生の第一歩を、四月から踏み出します。