夢をあきらめないで

T・K(50代)

 その朝、私はけだるさと共に目覚めた。体温を測ると38.7度。それでも私は、ガバッと布団をはねのけて起きた。「試験を受けに行くぞ」と固く心に決めて。
 当時私は、某外資系銀行の事務員。高学歴の新人たちは私に仕事を教わると、すぐに専門学校卒の私を追い抜いて昇進していった。そんなことの繰り返しに自分に誇りが持てなくなり、仕事から帰ると夕飯の支度をすませ、食卓で消費生活アドバイザーの試験勉強をしていたのだ。冒頭の朝は、二次試験の日だった。「試験さえ受けられれば途中で倒れてもいい」そんな気持ちだった。
 幸い試験に合格し、晴れて私は消費生活アドバイザーとなった。やがて私は某団体の職員となり、消費者啓発のパンフレットをデザインしたり、調査をしたりする仕事を手にすることが出来た。単調な銀行の事務と比べてやりがいがあり、仕事は楽しかった。しかし、そこで私を待っていたのは知識不足という厳しい現実だった。ここでの仕事は民法など法律の知識が必要とされ、大学を出ていない私は自分の知識不足を実感するようになった。
 それから私は団体の職を辞し、三十代半ばで放送大学の学生となった。放送大で勉強するには、自律心が必要だと言われる。自分のスケジュールに合わせて勉強出来る代わりに、遊びたいという気持ちを自分で抑えて勉強しなければならないからだ。そんな条件下で私は卒論の視点をジェンダーの社会学に置き、最短の四年で卒業証書を手にした。
 卒業を間近にしたとき、私は卒業が「終点」でなくて「スタートライン」に思えた。そして、新聞で見た少しの情報を頼りに私は日本初の女性学の修士課程で学ぶことにした。通学には約三時間かかる。車内で本を読む時間はたくさんあったが、ずっと座っているとお尻が痛くなり、私には「痛学」だった。でも、研究は楽しかった。修論のテーマはゼミのテーマでもあった「不妊」に決めた。私もまた、不妊経験者だったからだ。苦労して修論を書き、私は日本の女性学修士第一号の一人となることができた。
 ところが私は修論を書きながら、「心理学の知識があれば」と思うことが度々あり、今度は心理学を学びたいと思うようになっていた。そこで今度は民間のカウンセラー養成所に通いつつ、放送大に学士入学して心理学の勉強を始めた。やがて認定心理士の資格取得。次に2002年にできた放送大学院の臨床心理プログラムで科目履修生として、さらに心理学の勉強を続けた。並行して民間の機関で実践的なカウンセリングも学んだ。その頃から私は、不妊カウンセラーになりたいと強く思うようになっていたのだ。自分もまた、悩みを打ちあける相手を欲した時があったからだ。
 しかし、私が持っている学歴や経歴では心理職の仕事につなげるのは難しかった。何回か「残念ながら・・・」という人事担当者の声を聞くと、私はだんだんカウンセラーになることは自分には無理なのではないかと悲観的に考えるようになってきていた。
 そんなある日、新聞の折り込み広告で夫が「不妊カウンセラー」養成を支援してくれるという不妊専門クリニックの募集広告を見つけてくれた。「とにかく応募しなければ始まらない」と背中を押され、私は履歴書を書いた。十年間続けてきたカウンセリングの学習歴も付けた。それが功を奏したのか、私はそのクリニックに非常勤心理職として採用されたのだ。まさに夢のような話だった。50歳からのスタートがあるとは思ってもみなかった。
 着任はしたものの、私は心理職第一号。そして私のカウンセラーとしての初仕事。何をどうしていいのか相談する人もなく、私は今までの自分の蓄積・・職歴、学んできたこと、HPを作った経験、その他の体験などを頼りにする他はなかった。
 まず私は通院される方々向けに自分を紹介するチラシを作ったり、勤務先のHPに心理カウンセリングのページを設けたりした。でも、日本人にはまだ辛い思いをしているときにカウンセリングをうけるということが浸透していないせいか、私のPR不足か、なかなか予約が入らない。ともすると落ち込みそうになる自分を励ましつつ、心理職の立場からブログを書き、さらに自分の存在をアピールしていった。ここでも蓄積が活かされた。
 やがて、妊娠判定陰性という結果を聞いて泣かれる方や、生殖医療に不安を感じる方のカウンセリングを突発的にする機会も出来、また予約が入ることもあるようになり、私のカウンセラーとしてのキャリアが少しずつ蓄積されていった。それと同時に私はカウンセリングの勉強を続けている。今年の1月には産業カウンセラーの試験を受けた。非番の日には試験勉強をしていたのだ。不運な偶然は起きるもので、何と今回は試験当日の早朝、数秒間失神するというハプニングがあったが、冒頭の私のようにまたも体調に不安を抱えながら試験場へ向かった。今度はカウンセラーとしての自分の成長のために。