セカンドチャンス

匿名(30代)

10年近く前の話になる。私は薬剤師として採用され7年近く勤務していた市役所(保健所・病院で勤務)を退職することに決めた。他県で特別養護老人ホームを経営する伯母の後継者として働くためである。寿退職ならばまだしも他県へ行き、福祉施設の経営に参画するという私の大胆な決断に周囲は驚き、呆れていた。伯母から私の手伝いをしてよと連日の電話攻勢。日々の生活に多少不満と物足りなさを感じていた私は伯母の説得に根負けしたこともあり、思い切って新天地へ飛び込むことにした。先行きに不安を覚えながらも大勢の方に盛大な送別会をしていただき市役所を退職した。しかし、赴任初日に何となく感じた「これは前途多難だ。長続きしないかもしれない。」という私の直感はやがて的中することとなる。単刀直入にいえば名ばかりの副施設長であった。しかも伯母とは根本的に施設の経営方針、介護、人事管理に対する考え方が合わず最後には口も聞かなくなった。「公務員まで辞めてきたのは何のため?でもこの状況が変わるわけではない。薬剤師に戻って一から勉強しよう!」散々悩んだ挙句、密かに以前から興味のあった社会人大学院の受験を決めた。伯母とは絶縁し、合格通知を受け取った1カ月後には熊本へUターンした。しかし、すんなりと地元へ戻ったわけではない。盛大な送別会をしていただいてまだ1年も経っていない。「そんなことなら市役所を辞めんならよかったのにねえ。」と皆から言われることが容易に想像できたため眠れない日々が続いた。しかし社会人大学院(修士課程)への入学前には再就職先、研究テーマも決めなければならない。あれこれ過去のことを悩む暇はなかった。それにしても再就職先を探しに行くなんて以前からは想像もつかなかった。再就職先は自宅近くの診療所。一人薬剤師。また知らない人の中で仕事をしなければならないと考えると勉強したいという気持ちの一方で、現実逃避したいという葛藤の日々であった。年が明け、新しい職場での勤務が始まった。時期を同じくして大学院生活も始まり、自分より10歳以上年下の学生と共に机を並べることとなった。二つの新しいことを同時に始めることは30歳を過ぎた私にとっては相当な負担であった。大学を卒業して10年。その間自分なりに精一杯仕事も勉強もした。また世間の荒波に揉まれ、薬剤師としても努力してきたつもりだった。しかし、学生時代の不勉強も手伝ってか自分の無知、視野の狭さを徐々に実感するとともに自分の学生時代と比較してその学習内容の難しさに圧倒された。それは英語の医学文献が読めない、パワーポイントを使いこなせずプレゼンテーションが上手くできないことに顕著に現れた。それだけではなく研究テーマがいつまで経っても決まらなかった。社会人の場合、仕事をしながら大学院に通うため実験する時間は制約される。指導教官もずいぶん頭を抱えておられた。大学院から帰る車の中では先の見えない大学院生活にいい加減嫌気がさし何度涙したかわからない。そんな毎日が嫌になり大学院からも足が遠のいた。そんな折、指導教官であるH先生に呼び出しを受け自分のだらしなさを散々叱られ大泣きした。もう辞めようと思ったが中途半端で投げ出すことが悔しく、H先生に頭を下げ最後まで頑張ることを決めた。それ以降は18時に仕事を終え、大学へ向かう毎日。土日・祝日も研究室に通い勉強した。研究テーマも決まり、次第に文献を読むことにも慣れ、プレゼンテーションは相変わらず下手ではあったが徐々に勉強することの楽しさを体感できるようになった。21世紀に入り、我々を取り巻く社会情勢・地球環境は日々刻々と変化している。学問の世界も日進月歩。医療の現場も同様である。日々勉強していかなければあっという間に置き去りにされてしまう。日々努力することの大切さ、前向きに学ぶ姿勢を指導教官であったH先生より身をもって教えていただいた。修士論文の作成にあたっても四苦八苦し、またもやH先生に迷惑をかけたが、すっかり親しくなった研究室の若い同級生そして仲間に支えられながら何とかクリアした。謝恩会ではH先生に「君が堂々として論文発表する姿を見て本当に嬉しかったよ。」と言っていただいた。あっという間の2年間ではあったが勤務先の理事長をはじめスタッフの方や多くの方のお蔭で無事修了できた。2年間の間で学ぶ楽しさを実感し、以前よりもさらに薬剤師業務や臨床研究等について視野が広がり、仕事に対する意欲も湧いてきた。また人脈も広がった。市役所退職後の数年は波乱万丈の数年間であり、ずいぶんつらい思いもした。退職しなければそれはそれで幸せな毎日を送っていたかもしれない。しかし、つらかったけれど実りある時間が私の人生の大きな分岐点、セカンドチャンスとなった。修士課程を修了し数年後、以前から尊敬し大変お世話になっている先生の大学教授就任と同時に私も助手として赴任し現在に至っている。教員とはいえまだ十分な実力もなく未だ修業中の身であり次の大きな目標もある。そして生涯勉強していきたいと思う。その一方でこれまでの保健・医療・福祉分野での経験、修士課程で学びえたことを教育にも十分に活かし、人間性豊かな医療人・社会人の育成に貢献したいと考えている。