私の再挑戦
Y・N(50代)
私は現在、臨床心理士の資格をもち、大分県のスクールカウンセラーをしている。もともと心理学を専攻していたのではない。大学は理系である。生物学を勉強し、教員免状も持っていたが、卒業時それを活かす職業には就かなかった。
小学生の頃、将来の夢はピアニスト、中学生の頃は科学者にあこがれた。大学での勉強はその夢に少し近づきつつあったのに、自分から捨ててしまった。
その理由の一つは、卒業論文のために研究の手伝いと指導をお願いした、ある研究機関での人間関係のいざこざだった。私自身が巻き込まれたのではないが、「研究者とは崇高な理念を持って、研究に打ち込んでいる、気高い人」という私の理想像が壊れてしまった(今思えば、当時の私の純粋さだけではなく、私の逃げから来る言い訳だったような気もする)。もう一つの理由は、経済的に早く独立して、給料を稼ぎたかったことだ。大学の教授から助手として残って欲しいという、後になって思えば有り難いお話もあったが、当時の我が家には大学院に行く余裕などなく、薄給という助手の仕事には魅力を感じなかった。それなら教員になる方法もあったのだが、残念ながら一つの資格として教員免状を持とうと思っただけで、心から先生になりたいとは一度も思ったことはなかった。というわけで生物とは何の関係もないごく普通の会社のごく普通の事務員になってしまった。これが私の大きな間違い人生の始まりとなった。
霞ヶ関ビルにある大きな会社に勤め始めたが、すぐに後悔した。仕事の内容は来客の応対、お茶出し、コピー。おまけに、給料が短大卒と比べて歳が二つ多いので二千円だけ高いということを知り、本当にがっくりした。四年制の大学を出ていても何か特別のことが出来るわけでもないのに、当時の私は本当に世間知らずだった。
半年間我慢したが、結局やめてしまった。それから三つの会社を転々とし、「こんなはずじゃない。」と自分探しに悶々としているとき、縁があって結婚した、というか逃げ込んだ。
このまま何も考えないで専業主婦でいくはずだった。しかし夫の母親はとても自立した方で、大分に洋裁と和裁の学校を建てた人である。夫は母親が働く姿をじっと見てきた。だからことあるごとに「せっかく大学を出ているのにこのままだと勿体ないなー。」と言うようになった。「今、何がやりたい?子育てしながらでも出来るものを捜してごらん?」、そう言われ、昔挫折したピアノのことを思い出し又習い始めた。子どもの情操教育にもよいと夫は賛成してくれた。そして何年か後、講師免許を取り、ピアノ教室を任されるようになった。しかしその内、子どもにピアノを教えていると楽しいが、子どもとしか話をしない毎日に、いつしか物足りなさを感じ始めた。同時に下の子の子育てが思うように行かず、悩んでいた。そこに大学の同窓会大分支部で知り合った人から高校の理科講師にならないか、というお誘いがあった。その高校はいわゆる、落ちこぼれが行くという学校であったが、我が子もそこに行くことになりこれも何かの縁という気持で引き受けた。
実際の所、大変な学校であった。授業が成り立たないこともしばしばであった。試行錯誤を繰り返した。そして思った。「子どもには色々な能力の子がいる。学力だけで差別してはいけない。生来的なものや環境など様々な要因で二次的な問題が生まれるのだ。」、「ピアノ教室で関わった幼稚園や小学校の子はあんなに純粋で可愛かったのに教育を受けて行くにつれてなぜ心がすさんでいくのか?日本の教育は何かおかしい。」、「非常勤で理科の授業だけに行っても、子どもの真の教育はできない。」そう思い、大学院で教育学を学ぶため、六年目でピアノも高校の先生もやめた。この時51歳。
大学院に入ってすぐ、教育学か臨床心理かの進路を選ばされた。その時まで、臨床心理という言葉も知らなかったが、考えて臨床心理を選んだ。我が子と同世代の20代前半の若い人たちと一緒に勉強するのは大変だった。隔世の感があった。何もかもちんぷんかんぷんで学校に行きたくなかった。一人孤立していた。不登校になる寸前だった。修士論文を書くときは、身体をこわした。悲惨な毎日だったが、やり遂げた。二年間実務経験として福祉事務所の家庭相談員を務め、三年目にスクールカウンセラーをしながら臨床心理士の試験を受けた。人生の中で、この時ほど勉強したことはない。高校のときにこの位勉強していたら、きっと違った人生があったかもしれない。自分で自分を誉めてやりたい、それ位勉強をした。そして今、中学校のスクールカウンセラーをしている。
自分の子どもに関してどのくらい悩んだかしれない。道連れに自殺しようかと考えたこともあった。担任、学年長、校長から責められ、「私の育て方が悪かったのだろうか」、と苦しんだあの日。あの時スクールカウンセラーがいてくれれば私も子どももあんなに悩むことはなかっただろう。だから私は自分の子育ての反省とともに、相談に来る生徒を温かく見守っている。そして何よりも苦しみ悩んでいる母親の気持にしっかり寄り添うことができれば・・・という気持ちで、仕事をさせていただいている。私自身が先生をしていた経験からも先生方に対する理解が深められたと思う。
ただ一つ後悔しているのは、どうせ大学院に行くのなら、やはり若いときの方が良かったということである。私が臨床心理士になるまでには、それなりの回り道をしてきた結果、そこにたどり着いたということなのだが、若いときから志していた方が、私の歳になるまでには相当な経験をさせてもらえる。53歳で卒業した私には、若いことで許されることも許してもらえない部分がある。又、職種も限られる。苦労した割には報われないことが多い。しかし、私に出来ることを精一杯やって、それで喜んでくれる人が1人でもいれば・・・という気持ちで毎日仕事に向かっている。