私の再チャレンジ体験談

槙 星華(50代)

 私が、初めて社会人としてのスタートを切ったのは1975年の4月のことである。その頃、一般女性の給与は低く、男女差の無い公務員の給料や、勤務条件はそれなりに私にとって魅力であった。しかし、子供の頃からおよそ環境に適応することが苦手だった私にとって、ここで生きていく事の苦痛は学校に通うより更に大きかった。思い起こせば、私が中学生だった頃はまだ不登校などという言葉もなく、担任教師のもうこれ以上休んだら進級させないという脅しの前に体を引きずって登校したのは幸いであった。
 おかげで、なんとか高校も卒業し、神戸大学に入学することができたのである。特に努力することもなく就職できたのは、学歴社会の恩恵だと感謝しているが、残念ながら、この恩恵を活かすことはもちろん、社会に還元するどころではなかったのだが、生活の為に我慢に我慢を重ねて勤め続けた。そして、結婚し子供も生まれ、ようやくこの苦痛から逃れることを自分に許したのであった。専業主婦になったのである。
 物心の付いた、少なくとも4歳位から、常に抑欝感と死への誘惑の中で暮らしてきた私にとって子供を育てる作業は自分を振り返り検証するのに計らずも大層役に立った。私のような辛い人生を子供に歩ませるわけには行かない。私の育ち方のどこがどう間違っていたのか。どうすれば健やかに育つことができるのだろうか?本を読みあさった。しかしどこにも納得させられるものはなくどれもこれも嘘ばかりに思えた。
 しかたなく私は一般に信じられていた育児法を無視し、自分が正しいと思う方法を見つけ出し、実験し、納得いく方法で育てた。たとえそれが間違っていたとしても、私の精一杯で育ててみたかった。私の育児法は完璧にみえた。いつも、子供は私の予測通り確実に育っていった。しかし、子供が成長し、小学校の入学が近づいて来るにつれ、近所の学校から流れる放送に心が揺れた。こんなに理想的に育っているというのに・・・、あんなところへ行かせるなんて絶対嫌だ!ここまで来て壊されるのは耐えられない、と思った。そんな時、理想の学校を一緒に作りませんかという誘いは私の耳にとても魅力的に響いた。今の学校を変えるより、自分たちで本物の学校を作れば、こぞって皆がまねをするようになる。そう主張するたくさんの人々に出会い、私はそこに望みをかけたのであった。
 夫を説得し、仕事をやめてもらい、子供をその学校に入れ、家を売り、全財産と自分たちの労働力をすべて差し出したのであった。しかしそれは全くのでたらめであり、実はとんでもないことに加担していたのであったのだが・・・。自分がだまされたことになかなか納得できずようやく自分の馬鹿さ加減を認めたとき、すでに一年が過ぎていた。自分の子供に会うことすら出来ない理想の学校の実体がわかってきた時、ようやく私は目が覚めたのだった。子供を助け出さなくっちゃ。そして私たちは、全くの無一文で、しかもたった一年でとんでもない悪ガキと化した我が子を手元に取り戻して新たな一歩を踏み出したのであった。
 私は要求される生き方に合わせることで苦しんできたように思う。だまされたとわかった時、今度こそ私は私に合わせた生き方をしようと考えるようになった。
 夫の人生の立て直しに協力し、子供たちをもう一度理想の子に育て直した後、私は私の理想とする仕事を始めることにした。人生を大きく転換させるために私は、整体師になることに決めた。私は、心身の健康とはどういうことか、どうしたら健康に生きられるかを学んだ。私が子供たちを健全に育てようとして考えたことを理論的にも手法的にも強化することになったし、子供だけでなく自分も含めた大人や老後の健康についても大きな自信を持つことが出来るようになった。病人を直すのではなく、いつも健康に生き生き生きていくのにどうしたらいいのかを学んだのだ。この事を伝える仕事をしよう、と思った。
 私は今、整体を学ぶ教室を主宰し、ささやかながら健康に生きられる人を増やしている。
 私は、私の仕事は私にとって天職だなとしみじみと思うことがよくある。小さいときから苦しんだことも、子供を一所懸命育てたことも、だまされて全てを失った事も、全部がこの仕事の中に活かされている。私はこの仕事が出来ることをとても幸せに思っている。
 今思えば、オレの人生どうしてくれる、と夫に責められ、今日寝るところもなく、何もかも失ったあの時ほど、人生に積極的で、恐いもの無しだったことはなかった。いつか必ず、自分だけでなく夫も子供も、いい人生だと思えるようになる、と何の根拠もなく確信していた。だから、妥協せず諦めもせず、もう一度人生を作り直せたのではないかと思っている。