自分の気持ちのままに

藤本 千弥子(60代)

 還暦を迎えてもう三年になる。いつの間にこんな歳になったのだろうか?自分の歩んできた人生を悔いているわけではない。むしろ今ここにいることを「よし」としている。が、実年齢だけが着実に年を重ね、気持ちの上での自覚年齢とはどんどん離れていく。
 高校を卒業したのが昭和三十八年、高度経済成長が走り始めた頃である。女性で大学を目指す人はまだ少なかったし、志をたてて何かに向かう人も私の周りにはいなかった。もっとも私が進学しなかった一番の理由は学校の勉強が嫌いだったことにつきるが、私は当然のごとく就職したし、社会の情勢がそうだった。
 勤め始めても結婚までの腰掛け仕事で、女性は三~四年勤めて「寿退社」するのがベスト。ほとんどの女性がそれを目指していた。私も同様、四年弱で寿退社できることを喜び、結婚し子どもを産んで夫を支え専業主婦として生活することに何の抵抗もなかった。むしろ母に教えられた良妻賢母の自分になっていることを誇りとしていた。
 私の転機は四十歳前後だったろうか。それまでは夫の転勤の度に自分がその地で築いた人間関係も、手を出し始めた趣味、勉強も総て断ち切って新しい土地に移り住む生活を送
 っていた。いつものとおり旭川から埼玉に移り住んだ時は末っ子が五年生。子の親離れと転居による空虚感が重なったのだろう日々鬱々と暮らしていた。そのとき目についたのが今も続けている「電話相談員」のボランティア活動である。
 その時の心理状態が大きく作用していたと思うが、応募の条件の「自己形成史提出」に興味を引かれた。自己形成史を書くことで自分を振り返えってみたいと思った。多分そのときは、千弥子として私は生きているだろうかと漠然と考えていたのだろうと今振り返って思う。相談員になるための二年におよぶ研修期間のなかで「もっと自分が自分らしく、好きなように生きたら良いじゃん!」に確信がもてた。
 強い意志をもって始めたボランティアではない。自分探しに迷っていたときに、たまたま出会ったものだったが、私の何かが呼び起こされてしまったようだった。
 電話相談員を始めたのは東京だったが、数年たった頃、居住地の埼玉にセンターを作るという話がでて、手伝うことになった。場所も人もお金もない、ないないづくしからの立ち上げだった。埼玉センターの相談員になってもらうための人集めと研修、寄付の依頼、そして基点となる場所の確保、発起人の人達とともに走り回った。
 図らずも役割として、主に研修に携わることになったが「相手の話を聴く」に必要なメンタルなことに関して、まったくもって無知であった。カウンセリングという言葉さえ知らなかったのである。会議に出ても知らない言葉が飛び交う、相手は当然知っているものとして話してくる。私自身も知りたくて知りたくて。基礎を知らないとお話しにならないと放送大学に入学した。
 ただでさえ時間がなく走り回っているのに勉強?無理はすまいと七年での卒業計画で始めた。正直続くとは思えず「できるところまでやればいいや」くらいに思っていたが、これが楽しいのである。あんなに学校の勉強が嫌いだったのに。新しい知識を得ることの快感を知ってしまった。いまひとつは自分で払ったお金がもったいなくて、休むことなんてできなくて面接授業にも積極的に参加した。
 放送大学と並行して面白そうな講座を探して出かけた。ロールプレイ、エクササイズ、エンカウンター、ファシリテータートレーニング、メンタルテスト、箱庭などの体験学習、面白くてやめられなかった。
 埼玉センターの母体ができ社会福祉法人に認可された事務局を手伝うことになった。事務局の仕事と電話相談員としてのボランティア、そしてその勉強と、怒涛のような二十年を走り抜けてきた。その間に夫との関係が一時期ギクシャク、私の病気入院、子ども達の結婚、孫の誕生、両親の見送りなど、生活をしていくのに避けて通れないことにぶつかりながらも、自分が興味引かれ、やりたいと思ったことを続けてきた。充実していた。
  「ボランティアでしょう、そんなに入れ込んでどうするの?」「お金にならないどころか持ち出しでしょう」と他人は言うが私にはこれが良い。今は事務局は若い人に引き継いでもらった。少しゆとりを持って電話相談には関わり続けていきたいと思っている。
 そして還暦を過ぎた頃から少し気持ちに変化が起こっている。相談を受けるのは「聴く」が原則でそれに徹してやってきた。でも今度は自分から何かを発信したくなっている。自分の想いをどれだけ人に伝えることができるだろうか?気持ちに変化が起こっている以上行動も変わってくるだろう。これからの自分の変化を楽しみにしている今の私である。